―― 5年前、高校2年生の時、香穂子は一生忘れられそうもないものに2つ出会った。 1つは音楽。 妖精とか魔法のヴァイオリンとかとんでもなくファンタジックなもの目白押しでてんやわんやの出会いではあったけれど、気が付けばすっかり愛していたその世界。 音楽との向き合い方や伝え方、色々な人と出会う中でそれを学んでいつしか香穂子を構成する欠かせない要素になった。 その結果、付属の大学の音楽科に進んで気が付けばこうして音楽教師への道を歩んでいたりするのだから忘れられないどころか、人生を変えてしまったものかもしれないが。 そしてもう1つが、月森蓮だ。 第一印象はそりゃあもう、最悪だったと太鼓判を押して言える。 何せ冷たいわ厳しいわ、言われることがいちいち的確な事も加えて香穂子を傷つけた要素だった。 故に最初はなるべく関わらないようにしようかとさえ思っていた香穂子だったが、ヴァイオリンを好きになるほどわからないことが増えて、それを聞くのに最適なのが誰あろう月森その人で。 厳しいことを言われるの覚悟で何度も月森に色々な事を教わっているうちにだんだん香穂子は気が付いた。 厳しいのも冷たいのも香穂子に真っ直ぐ向き合ってくれているからで、柔らかい言葉を使わないのはちょっとだけ人付き合いが苦手だからだと言うことに。 だから自分も真っ直ぐに向き合えば彼の優しさや誠実さも伝わってくるようになって。 ・・・・気が付けば、恋をしていた。 認めてもらえれば嬉しくて、笑いかけてもらえれば心臓が跳ねて。 意識する前も、意識した後も気が付けば月森を追いかけていた。 だからコンクールが終わって、その後普通科と音楽科を分離させる騒動の為にコンサートを開いた時にも月森が協力してくれたのは本当に嬉しかった。 そしてクリスマスコンサートの後に ―― 「俺は、君のことが好きだ」とそう言われた時は都合の良い夢を見ているのではないかと思ったぐらいに嬉しかった。 たとえ、一緒にいられる時間が後少ししかないのだとわかっていても。 ―― その日からわずか3ヶ月後に月森は日本を離れていった。 何の約束も残さないまま・・・・。 放課後の正門前は意外にも人の姿はなかった。 もう下校時間が近いせいもあるのだろうけど、香穂子はほっと胸をなで下ろす。 (なんせこれから銅像に向かって話かけなくちゃいけないもんね。) 5年前は不用意にリリに話しかけてかなり不審な目で見られた事を思い出して香穂子ははあ、とため息をついた。 さすがにあの当時の二の舞はごめんこうむりたい。 (あの時はしょうがなかったんだけどな。他のみんなとハンディがありすぎたし。ボタモチなんて言われたりして・・・・) 不用意に思い出した出来事に、ちくりと胸が痛んで香穂子は顔をしかめた。 (・・・・思い出が多すぎるのも考え物だよね。) もともと星奏学院は香穂子にとっては母校だから色々思い出があるのは当たり前だが、今は時期が悪かった。 何年かぶりに開催されている学内コンクールは学院の空気を巻き戻したように5年前のそれに変えていて。 (あんまり思い出すと辛いんだけどな。) ただ真っ直ぐに月森を想っていたあの頃を。 そして自分の気持ちがあの頃と全然変わっていない事を突きつけられるのが辛かった。 別に今だってウィーンにいる月森と連絡をとっていないわけではない。 けれど、あちらでも才能を発揮している彼は少しづつ多忙になっているのか、5年前のように電話をかけてくることも減った。 メールとハガキも僅かずつだけれど少なくなっている。 これが『距離』なのかな、とぼんやりと思い始めたのは1年くらい前だっただろうか。 そう思ってしまうと届いたハガキを見るのが段々怖くなるようになった。 ただ惰性のように書かれている文章だったら。 別れを切り出すような言葉だったら。 ・・・・何時だって真摯に向き合ってくれていた月森にたいしてそんな風に感じるのは馬鹿らしいと自分でも頭では分かっている。 けれど、3日前に届いたハガキはまだ香穂子の机の上で伏せられたままだ。 うつむきかけた顔を香穂子は無理矢理上げた。 「しっかりしなくちゃ。」 自分に渇を入れるように呟いて香穂子は軽く頭を振った。 (少なくともこの実習中は夢に向かうことだけを考えるって決めたんだから。) 自分自身で仕切り直して香穂子は目的地であるリリの銅像に向かって歩く。 そして校門に背を向ける形で銅像と向き合うと、左右を良く確認してそっと声をかけた。 「リリ?」 返事はない。 ついでになんの反応もなくて香穂子は眉をひそめる。 コンクール中にリリがファータの店にいないことなどなかったというのに。 「リリ?いないの?」 もう一度問いかけても無反応。 「うーん、どうしようかなあ。もう少し大きな声で呼んでみようかな。」 でもそれだと他の生徒に気づかれる可能性もあるし・・・・と香穂子が考え込んだ、その時だった。 「やめたほうがいい。リリは来ないから。」 一瞬で、考えていたことの全てが真っ白になった。 (今の・・・・) 凍り付いたように身体が動かない。 視界に誰も人影はない。 だから今の声が幻でないとするならその主は背中側にいるとわかっていたけれど、振り向けなかった。 「さっき、見えない何かに服を引っ張られてここまで来たんだ。」 どくん、どくんと心臓の音が耳元でなっているみたいに大きく聞こえる。 まだ、動けない。 「たぶん、俺が迷っていたのを見てリリが引っ張ってきたんだろう。」 (うそ・・・・・・うそ、だよ・・・・・) 繰り返しながら、それが間違いだと自分で気が付いていた。 だって確かに、その声は香穂子の耳に届いていたから。 「俺が・・・・君を探していたから。」 躊躇うような間。 高くも低くもない澄んだ声。 その声が決定的な一言を紡ぐ。 「香穂子」 弾かれたように香穂子は後ろを振り返った。 その勢いに驚いたのか、その人は少し目を見開いて立っていた。 腕を伸ばせば届く距離に ―― 月森蓮、その人が。 「つ・・・きもりくん・・・・・?」 「ああ、驚かせただろうか。」 何故か不思議そうにそういう月森を香穂子は半ば茫然と見つめていた。 驚かせた? そんなレベルの問題じゃない。 「心臓・・・・ひっくり返ったかと思った・・・・・・」 ヘナヘナとその場にしゃがみ込んでしまった香穂子に、ぎょっとして月森が駆け寄ってくる。 「大丈夫か?」 「大丈夫じゃないよぉ。」 正直、今これが夢だと言われても全然驚かないと思いながら香穂子は取りあえず深呼吸をしてみた。 いっそ夢ならさっさと覚めて欲しいと思っての行為だったが、目を開けてもやっぱり少し眉間に皺を寄せた月森はそこにいた。 「・・・・嘘みたい。夢じゃないんだ。」 「夢?何を言ってるんだ?今日帰国すると言っていたはずだが。」 「へ?」 自分にとってまるっきり新情報をもたらされて香穂子が間の抜けた声を出すと、月森の眉間に皺が一本増えた。 「ハガキを出したと思うが、届いていないだろうか。」 「ハガキ・・・・」 届いていた、2日前に。 けれどそのハガキは裏返されたまま今も机の上だ。 どう答えたらいいものか頭の回らなかったために落ちた沈黙を月森は違うように解釈したらしくため息をついて言った。 「届いていないのか。それなら・・・・空港にいなかったのも当たり前か。」 「え?」 後半が聞き取れずに聞き返した香穂子に月森はなんでもないと首を振った。 その表情が少しほっとしたようなものになっている事には気が付いたけれど、それを追求する事は出来なかった。 何故なら、月森が香穂子に視線を合わせ真っ直ぐに見つめてきたから。 どきっと大きく香穂子の心臓がなる。 不意に思い出したから。 あの5年前のクリスマスコンサートの夜、彼は同じ目をしていた、と。 「それなら、改めて言わせて欲しい。」 訳が分からず目をしばたかせる香穂子に月森はゆっくりと告げる。 「ただいま。」 「え・・・・?」 「今日、帰国したんだ。しばらくはまた日本で活動する。」 「え・・・・・・・・・えええええええええええええええええええ!?」 思わず香穂子は叫んでいた。 その素直すぎる反応に、堪えきれなくなったように月森が口許に笑みを浮かべる。 「ちょっ!え?何?帰国って、一時的に帰ってきただけじゃないの!?」 「そうだ。ウィーンの家は引き払ってきたからしばらくは実家に住むつもりなんだが。」 「実家って日本の!?」 「・・・・日本以外に実家はないぞ。」 やや呆れぎみの月森の言葉をなんとか香穂子は反芻する。 そして。 「じゃあ・・・・会えるの?」 ぽつりと呟かれた言葉に、何故だか月森が切なそうな顔をした。 そして気が付いた時には香穂子は月森の腕の中にいた。 「いつでも。君が会ってくれるのなら。」 抱きしめられた腕からじんわりと伝わるその熱と、耳に触れる囁きがゆっくりと香穂子の体中に行き渡る。 途端に、ぽろぽろと堰ききったように涙があふれ出した。 「月森君・・・・月森君!」 確かめるように抱きついてくる香穂子を月森はぎゅっと抱きしめてくれた。 (どうしよう・・・・心臓がひっくり返るなんてものじゃないよ。) 壊れるんじゃないかと思うぐらい、心臓が痛い。 嬉しさで、切なさで、そして何より月森への愛おしさで。 「香穂子」 名前を呼ばれて躊躇いながら顔を上げると、月森が困ったようなけれど酷く嬉しそうな顔をして見ていた。 「俺は、君に何も約束せずに行ったから、不安だったんだ。」 「何、が?」 「君の心が誰かに動いてしまわないか。だが、そんな風に泣いてくれるなら期待してもいいだろうか。」 「?」 意味が掴みきれずに首を傾げた香穂子の頬を月森がそっと拭う。 「俺は今でも変わらず・・・・いや、前よりもずっと君を必要としている。君にとってはどうなんだろうか?」 「必要に・・・・決まってるでしょ!」 笑顔で言ったつもりだったけれど、実際はかなり泣き笑いに近かったと思う。 けれど「よかった」と呟いて微笑んだ月森があんまりにも幸せそうな顔をするから、ちゃんと気持ちは伝わったんだとわかって香穂子はホッとした。 そして1つ深呼吸をして今度はきちんと口にだす。 「ずっと、ずっと好きだったよ、月森君。」 ―― その瞬間 学院中に光が溢れた ―― 愛おしそうに目を細めて月森がそっと頬を傾ける。 ―― 雪のように降り注いだ光の雨を運良く見た生徒たちは その光の中に、それは嬉しそうにはしゃぐ小さな妖精の姿を見た ―― それが酷く自然な事のように、香穂子もそっと目を閉じる。 ―― そうして そうして ―― 恋人達の再会のキスは世界の片隅でヴァイオリン・ロマンスという奇蹟を起こした・・・・ 〜 Fine 〜 |